2016年7月31日日曜日

母のフランス、娘の後悔

夏休み本番、どこかへ旅行に行く計画のある方も多いのではないでしょうか。

今では長期休みには家族で海外旅行に行くのも一般的になっていますが、私が子供の頃には、ハワイやグアムに行った友達がいるとその珍しさに話題になったものでした。

我が家も旅行はお正月の京都という感じで、私は大学2年でパリに短期留学するまで国外に出たことはありませんでした。

我が母も新婚旅行は当時の定番九州、その後も海外に旅行することはなく、そもそも言葉の通じない国への旅行に行きたいとも思っていないようでした。

ところが、私がアンジェに長期留学となったので、当時大学1年生だった妹①と一緒に来仏することになったのです。
私は久々に家族に会える嬉しさと、元々自分と全く性格の違う母が来ることに不安を覚えました。

パリとアンジェ、合わせて10日程の滞在だったのですが、その間に何度喧嘩になったでしょうか。

スリに合うからブランドものは持ってくるなと言ったのに空港迎えに行くと、普段は持たないヴィ◯ンなど持って来てるし。

食事に行けばこれは食べられないとか、この店は日本人観光客ばかりだとか気にさわることばかり言うし。

所構わず写真を撮りまくるし。

せっかく予約したプチホテルは湯船がないとか幽霊出そうだとか言うし。

超マイペースで自分のスタイルを崩さない母に始終イライラしていました。

(妹は1人で買い物に行き、第2外国語で履修中のフランス語の腕試しをしたりして楽しんんでいたようでした)

それから20年近く経ってみると、あの時あんなに苛立たずに、初めての海外旅行の母に、もっと優しく接して、フランスという国をリラックスして楽しんでもらえばよかったなと後悔しています。


そもそも長い期間、家族と旅行できるチャンスはそうないのに。

私のせいで母のフランスの思い出が苦いものになっていないことを祈るばかりです。










2016年7月29日金曜日

SAJIについて

 梅雨も明けて夏本番となりました。皆さんいかがお過ごしですか?
 暑い日には涼しいおうちの中で、お気に入りの本のページをめくって過ごすのがいちばんと思う新行内です。

 今回は先日最新号が発売されたsaji magazine について書きます。

 フォトグラファーのMihoさんが中心となり、 いま食べているものが、10年後のあなたのカラダをつくる” をテーマに、各界のクリエイターたちと、食の大切さ、楽しさ、そして、美しさを表現する活動saji。年1回発行されるsaji magazineは日英仏の3カ国語表記でで作られていて、世界の食とアートを愛する人たちをつないでいます。他にもさまざまなイベント、ワークショップなどを企画し、世界中で好評を得ています。
 
そんな素敵なsaji magazineの翻訳を2012年からお手伝いさせていただいています。

saji home page     http://www.saji-web.com/

saji Gohan               http://sajigohan.com/


  
 Mihoさんはパリと東京を拠点に活躍されています。彼女とは、イザベル・ボワノの個展の打ち上げの席でお話しさせていただいたのが最初の出会いでした。その時にフランス語翻訳をしているとお話ししたところ、後日、翻訳のご依頼をいただきました。普段はフランス語から日本語への翻訳がほとんどですが、saji magazineのお仕事は日本語をフランス語にします。Mihoさんのコンセプトや、原文を書かれたクリエイターさん、ライターさんの世界観をフランス語圏の方にきちんとお伝えできるよう心を込めて訳しています。

 食とアートは親和性が高いというか、食こそ生活の中で毎日行う芸術活動なのではないでしょうか?まさにフランス語でいうところのL'art de vivreです。私の周りのアーティストたちは皆、食を大切にし、『何をどうやって誰と食べるか』ということを常に意識していると思います。

 そんなsaji magazineの最新号のテーマは「こどもサジ」(写真下段中央と右端)。こどもたちに向けて食の大切さや楽しさを伝える楽しい1冊となっています。もちろん大人たちが読んでも面白い内容です。今号で私は別冊の絵本「ぼくをきらいにならないで」<Please do not hate me!>のフランス語訳を担当しました。この絵本、3歳の我が息子も大好きで、毎日読んでとせがまれます。とてもかわいいお話です!

 コンテンツやデザインはもちろんのこと、毎号毎号、用紙(本に使われている紙)も印刷も素晴らしいです。アートブックとしての価値も高いと思います。

 日本はもちろん、アメリカ、イギリス、フランス、台湾など世界の書店で販売されています。(取り扱い書店はHP のstockistsのページでご確認くださいませ。)

 食とアートを愛する方にぜひ読んでいただきたいです!!

 

2016年7月27日水曜日

フランス語女子のデフォルトファッション

 私が大学生の頃(1996~2001年)のフランス語を学ぶ女子学生のデフォルトファッションについて考えてみました。

 当時流行っていたものですね。もちろん全員が持っていたわけではないけれど、持っている人が多かったものベスト3です。(あくまで私の主観)

 ① ボーダーシャツ

 これは圧倒的にSaint James派が多数でした。あとはLe Minor とOrcival

 今はやっている白地に紺や赤のボーダーというよりは、カラーベースに白のボーダーの方が多かった気がします。これは男女を問わず文化系の学生はみんな着ていたんじゃないでしょうか?
 
じゃぶじゃぶ洗えて丈夫な上に、デニムにもスカートにも何にでも合う。着心地もよい。今またかつてないほどボーダーが流行してますよね。これはもう国民的トップスになっていますね。
 
これとまったく同じのを着ていました(懐)

 ② アニエス・ベーのカーディガン

 これも多かった。色は黒が多かったと思います。本当はスナップカーディガンが欲しかったのですが、学生には少し高かったので私は持っていませんでした。少しだけお安かったコットン素材のボタンカーディガンはよく着ていました。
 
カラフルで毎シーズン新色が出ていましたね。私は緑が好きだったのですが、黄緑色が発売になったとき、すぐに買って色が褪せるまで着ていました。

画像はこちらからお借りしました



 ③ エルベ・シャプリエのナイロントートバック

 とても流行っていました。指定カバンか?っていうくらいにみんなこれを肩にかけて登校していた気がします。

 高校時代にLL Beanのキャンバストートがすごく流行っていたんです。で、大学に入ってエルベに買い替えるみたいな。

 辞書必携の外国語学部生にとって、丈夫で大きいトートバックは実用的だったんですよね。今はみんな電子辞書になって荷物も軽くなってるのかもしれないけど。

 お土産を頼まれてパリのお店に行ったら、店内みんな日本人女子でした。自分のものも買おうと思って行ったのになんとなく買えずに帰ってきた記憶があります。
画像はこちらからお借りしました


  こうやって挙げてみると、どれもスタンダードで飽きのこないものばかりですね。今の大学生はどうなのでしょう?どんな服を着て学校に行くんだろう。

 以上街中にユニクロもH&Mもなかった頃のお話でした。



 

2016年7月25日月曜日

『猫が行方不明』

 (久々の更新となりました。また当ブログに遊びに来ていただき、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。)

     さて、皆さんには何度も繰り返して観る映画がありますか?

 私が定期的に繰り返して観るのはセドリック・クラピッシュ監督の『猫が行方不明』という映画です。

 Chacun cherche son chat    Cédric Klapisch (1996)

                                                         (画像はAllcinemaのサイトより


 日比谷のシャンテ・シネに観に行って、それから何度もレンタルして、最終的にはDVDを買いました。そしてパリでサントラ盤も。とにかく大好きな映画です。

 舞台はパリの下町。若いアーティストも多く住むカルティエだけど、昔からの住人である老人たちも多い。メークアップアシスタントのクロエは、ヴァカンスに出るため、近所のおばあさんマダム・ルネに飼い猫グリグリを預ける。パリに戻るとグリグリが行方不明になったと知り、カルティエの住人たちと捜索を始めるのだが…

 あらすじはざっとこんな感じ。特に何が起こるわけでもない、しかも俳優の半数は素人。華やかなパリではなく、日常のパリを切り取った作品です。

 主人公クロエを演じたギャランス・クラヴェルの等身大の演技が素晴らしく、クラピッシュ監督に見初められ、その後フランスを代表する俳優となったロマン・デュリスもいい味を出しています。

 特に印象的なのはラストでクロエが喜びで走り出すシーン。Portishead の名曲 Glory Boxが流れ、エンドロールへ。その流れが完璧なのです。クラシックからサルサ、テクノまで、劇中を彩る音楽も絶妙です。
 
 フランス映画を観たいけど何を観ようか迷っている方!おすすめです!

 




2016年7月18日月曜日

Badoit(バドワ)の夢を見る

  皆さんの人生で一番恥ずかしかったことは何ですか?

 最近、トラウマになっている恥ずかしい出来事の夢を見ました。この夢は疲れているときなどに繰り返し見る私の悪夢2トップのひとつです。
(もう1つは中学の修学旅行の集合に寝坊して大幅遅刻する夢(実話)です)
 
 そのトラウマを解消するためにも今回はその出来事をお話します。

 パリに初めて短期留学した時、私の楽しみのひとつはスーパーマーケットに行くことでした。今まで紀伊●屋さんとか明●屋さんとかでしか見たことがなかった輸入食材がずらりと安価で並ぶパリのスーパーはまさに夢の世界。ソ●ープラザでは500円もするビスケットが半額以下で売られているというデフレ感。私は時間が空くとよくスーパに行きました。

 その日はとても暑い日でした。何か冷たい飲み物を買おうと、私はスーパー(モノプリだったと思う)に入ります。

 飲み物のコーナーには日本と変わらないコーラやジュースの類が並んでいました。そしてその横には、何十種類とあるミネラルウォーターが並んでいます。

 「ミネラルウォーターを買っちゃう私ってかっこいいんじゃないの?」と思い(恥)、そのたくさんの種類の中からBadoit(バドワ)という日本では見たことがなかった種類の水を選びました。きれいな緑色のBadoitのペットボトルを手にした私は、鼻歌交じりでいつものお菓子売り場パトロールに向かいました。ふむふむ、今日も異状なし、全部おいしそうだわ~。次はチーズ売り場と肉売り場。青果売り場も廻り、すべての売り場に異状がなかったことを確認した私は、意気揚々とレジに向かいます。
こんなに種類があるのですね 

 レジはベルトコンベヤのようになっていて、自分の買うものを置いたら、次の人との仕切りをするために、長い文鎮のような棒を置きます。初めて買い物したときは要領がわからずおどおどしてしまい、不機嫌そうな店員さんに思いっきり迷惑そうにされてしまいましたが、今回は大丈夫。
私は支払いを済ませたBadoitを手にレジを通り抜けました。ミッションコンプリート!!

 もう私もパリジェンヌのように買い物ができるのだ!しかもミネラルウォーターなんて洒落たものを買っている!!有頂天になった私は、レジで緊張したせいで喉がカラカラなのに気づきます。

 さっそくお水を飲みましょう、キャップを開けてと…

 パンッ!!

大きな音がして、水が飛び出しました。

周りの人たちはびくっとして、この物騒な音を出した犯人に厳しい目を向けます。

誰よりいちばん驚いた私はと言えば水がかかって腕や履いていたズボンまでびしょ濡れです。



 たぶんパトロール中に、ペットボトルを振りながら歩いていたのでしょう。微発泡のはずのBadoitがあんなに暴発するのですから!!

 以上、お付き合いいただきありがとうございました。もうこの悪夢を見ませんように…。

2016年7月17日日曜日

祖父母の思い出

 私が育ったのは千葉県の北東部にある旭市という町です。JRの総武本線特急に乗って東京駅から1時間半。九十九里にも面する自然豊かでのんびりとしたところです。

 そんな我がホームタウンも、今では国道沿いには飲食店が軒を連ね、大きな図書館があり、中心部にある公園では、おしゃれなフードイベントなど催され、なかなかの賑わいです。でも、私が小さかった頃は、本当にのどかで、住民はほとんど知り合いという風でした。

 そんな中、我が祖父母は変わっていました。

   祖父は自宅を自ら設計し、九十九里浜に漂着した縄文杉を掘り起こして製材したものを使って建てたり、当時秘境とされていた中国雲南省にしばしば赴き、貿易業を始めたり。

 趣味の骨董集めは、趣味の域を超え、家の中は骨董品(ガラクタ含む)だらけ。私が寝ていたベッドもいつの時代のものかわからないような木製のものでした。晩年はその自宅を資料館として開放していました。
 
 健啖家の祖父は、なんでも食べました。自宅のベランダで栽培した変な植物、雲南省から持ってきた古代米、松茸、白魚、などなど。それらをなんとも上手に調理して私たちにも食べさせてくれました。祖父は食べ物を勧めるのがとてもうまく、「のりちゃん、一口だけでも食べてごらん。ほっぺが落ちるほど美味しいのだから」と言って、初見の食べ物に躊躇う私を、食べてみるかという気持ちにさせるのでした。
 
 自宅には、時々中国の外交筋の方たちが祖父に会いに訪れ、、なぜ、一介の田舎のおじいちゃんの元にこのような方たちがいらっしゃるのか、子供の私にはわかりませんでした。(今もよく分かっていません(笑))

 他方、祖母はとてもおしゃれな人で、毎朝のフルメイクは欠かさず、爪はきれいにマニキュアを塗り、全身隙のない服装をしていました。家業を継いだ父を手伝う母の代わりに私の世話をしていた祖母は、よく私の母親だと勘違いされ、それを得意にしていました。

 祖父の作るゲテモノ料理には決して手を出さず、好き嫌いの多い人で、お菓子やチーズばかり食べていました。髪をたてロールに巻き、フルメイクでわがままな祖母を、私は陰で妹たちと「マリー・アントワネット」と呼んでいました。

     幼少期を両親よりも長く過ごし、可愛いがってくれた祖父母のことが大好きでした。

 そんな2人も鬼籍の人となってしまいました。

 最後の濃密な思い出は、大学時代に、祖父母と私、妹、従弟の5人で2週間中国雲南省と北京を旅行したことです。珍道中でしたがすごく面白い旅行でした!
 
 私が英語が好きになるようにと、教材をそろえてくれたり、私が生まれる前に行ったヨーロッパ旅行の話を聞かせてくれたり、今考えてみれば、祖父母の影響をもろに受けて、私は外国への憧れを膨らませていたのだと思います。

 特に何でも食べる食いしん坊なところは、祖父から受け継いでいると思います。

 この夏は帰省し、お線香をあげたいと思います。


2016年7月16日土曜日

イザベル・ボワノの日本語ブログ

 インターネットが普及していなかった青春時代、あこがれのアーティストや作家、ミュージシャンの活動は、世に出た作品のみで知ることができ、その生い立ちや日々の生活についてはよほどの有名人でもない限り、知られることはなかったと思います。

 今ではホームページやSNS、ブログ等でアーティストの活動やプライベートについて知ることができるようになり、私たちファンとの距離はぐっと縮まりました。
 
 また、そのブログやインスタグラムにアップされる写真なども、作品の一部といってもよい時代になったと思います。

 さて、今回は私が日本での仕事のお手伝いをしている、イザベル・ボワノの日本語ブログについてです。

 まずは彼女のブログ、ご覧になったことはありますか?


 公式日本語ブログ『イザベル ボワノのブログ』はこちら  

 彼女のパリと田舎の両親の家での生活のひとコマ(料理やお菓子、蚤の市、パパの丹精する家庭菜園など!)や、来日時の東京の街で出会った面白い風景、かわいい犬(彼女は大の愛犬家なんです!)などが紹介されています。
 
 また日本でのイヴェントや出版・掲載情報などについてもお知らせしているので、ファンは見逃せませんね。



 Instagram も頻繁に更新していますよ。こちらもフォローして頂ければと思います。

 イザベルは気さくでファンとの交流をとても大切にするアーティストです。(彼女のサイン会にいらした方は、彼女がひとりひとりに丁寧にサインをするのをご存知だと思います。)何かイザベル本人に直接聞いてみたいこと、お知らせしたいこと(ご自分のブログにイザベルのことをアップして頂いたなど)等ありましたら、彼女のフェイスブックへコンタクトを取っていただければと思います。(リンクがブログの中にあります)もちろん、日本語で書きたい場合でも大丈夫です。ぜひ、今ご覧いただいている新行内のブログのお問い合わせフォームからお送りください。私が責任を持ってイザベルにお伝えします!!

 イザベルは今後どんどん日本での活動を広げていきたいと思っています。
 彼女の仕事にご興味を持ってくださったら、ぜひお気軽に私にコンタクトを取っていただければと思います。

 それでは!


2016年7月15日金曜日

誰にも壊せないもの

 今朝息子を学校に送り出し、テレビをつけると、ニースでの事件のニュース。
 
 その後一日中何をしていても上の空でした。

 初めてのフランスで友人と訪れたニースの街。美しい浜辺に沿ったプロムナード・デ・ザングレを晴れやかな気分で散歩したことは今でも私の胸に刻まれています。美しい思い出や、友情や、連帯の気持ちは、誰にもどんな卑怯な手を使っても破壊することはできない。

 被害にあった方たちとそのご家族に深い哀悼の意を表します。

2016年7月14日木曜日

パリで食べるもの その3 クスクス

 クスクスってかわいい名前だね~♪(童謡トマトのメロディーに乗せて)
 今日新行内が食べたいのは~クスクスです。

  そして 3回にわたってお送りしたパリで食べるものシリーズ、最終回です。


クスクス(Couscous)

 北アフリカマグレブ地域発祥の料理で、デュラム小麦に水を含ませてそぼろ状に丸めて蒸したスムール(semoule)に、肉や野菜を煮込んで作ったスープをかけていただく料理。トッピングに焼いた肉や魚、メルゲーズ(腸詰)などがあり、お好みでハリッサと呼ばれる唐辛子のソースを混ぜながら食べます。こちらもパリにはたくさんのレストランがあり、学食や家庭でもよく出てくる、もはやフランスの国民食と呼べる料理です。
 
 アンジェに留学していた頃、パンが大好きな私でも、どうしてもご飯が食べたくなることがありました。そんな時、学校の近くにあったマグレブ料理屋さんでクスクスを食べました。つぶつぶとしたSemouleを食べると、なんとなく満足することができたのです。(当時アンジェには日本料理店はなく、近所の中華料理店はすべてが塩辛くて苦手だったのです。)

 上の写真はパリ在住の友人に連れて行ってもらったサクレクール寺院の近くのRue MullerにあるLe Petit Bleuというお店のCouscous Royal(ロワイヤルはトッピング全種乗せ)で、とても豪華。小さなお店ですがとても居心地がよく、自家製のハリッサがとてもおいしいです。ボリューム満点でうんとお腹を空かせていかないと完食できません。

 下の写真はパリのモスク、ラ・モスケ・ドゥ・パリの中庭にあるレストランのクスクス。こちらはあっさりとしていてするすると入っていくタイプ。ただ、中庭には客の食べるクスクスを狙う鳩たちがテーブルにまで上ってきて、ヒッチコックの『鳥』は絶対見れない鳥嫌いの私には修羅場でした。(その後鳩に怯える私を見て笑いをこらえながら給仕の方がスムールの皿をナプキンで包んでくれて事なきを得ました。はじめからこのスタイルで持ってきてほしかった。)

 スムールは輸入食材店で手に入りますし、スープも簡単に作れるのですが、夫も子供たちもクスクスが苦手。どうしても家で作って食べる気になりません。

 なので、パリで食べた~い!

 さて、3回にわたって私がパリで食べたいものをご紹介しましたが、何かにお気づきでしょうか?

 はい、いわゆるフランス料理がひとつも入っていないじゃないか~!!

 留学中も、旅行で訪れるときも、もちろんフランス料理を食べることの方が圧倒的に多いのですが、記憶に残り、帰国後に思い出して猛烈に食べたくなるのはパリのエスニックばかり。

 そもそも人種、宗教、文化のるつぼ、パリ。
 この街では、ボブンもコック・オ・ヴァンも、ファラフェルもクロックムッシュもすべてが同じように愛され、堂々と存在している。カテゴリーなんて軽々飛び越えておいしいものを食べる。パリジャンたちのそんなところが私は大好きなのです。

2016年7月13日水曜日

パリで食べるもの その2 ファラフェル

 たこ焼きやお肉屋さんで買うコロッケ。いわゆるストリートフードと呼ばれるジャンル。若い頃は外のベンチにちょこんと座って、パクパク食べるのが大好きでした。アラフォーと呼ばれる今、無心で何かを食べる姿を人目にさらすのが申し訳なく、できれば持ち帰りたくなってきている新行内です。

 さて今回はパリのストリートフードの代表格、ファラフェルについてです。

ファラフェル (Falafel)

 


 ファラフェルは中近東発祥の料理で、ひよこ豆をすりつぶしたものにスパイスを混ぜ、団子状にし、油で揚げたもの。パリではこのファラフェルをたくさんの野菜や揚げ茄子などと一緒にピタパンにはさみ、ソースをかけたものが街のスタンドなどで売られています。(サンドイッチにしていないファラフェルもレストランで出されています)
 肉を使っていないのにお肉を食べたような満足感。野菜たっぷりでこれを1つ食べれば栄養もカロリーも十分補給できる。でも植物性だからヘルシー。パリの街歩きの途中に気軽に食べられるのも嬉しいです。
 
 4区のマレ地区Rue des Rosiers(ロジエ通り)には何軒かのスタンドがあり、人気店では行列も出来ています。これを食べるたびにおのぼりさんっぽいな~(原宿でクレープ食べるみたいな)と恥ずかしくなるのですが、食べずにはいられないのです。誰も知り合いもいないし(笑)立ち食いするのもそれほど抵抗がありません(周りでみんな食べてるしね)。

 写真はロジエ通りのChez Hannaのファラフェルサンド。多摩地区の健啖家おばさんと呼ばれる私でも、1つ食べきれませんでした。おいしいんですけどね。すぐ近くにあるL’As du Fallafelのものが好きなのですが、この時は閉まっていました。

 東京にもお店がけっこうあるようなのですが、どれも自宅から遠い、おしゃれ地区にあるのでなんとなく足が向かいません。

 あ~ファラフェル食べたい。

 続きます。

2016年7月12日火曜日

パリで食べるもの その1 ボブン

 今日はじめじめと不快な暑さ。周りには早めの夏休みを取ってヨーロッパ旅行をする方もちらほら。SNSにアップされる写真を眺めると、自分も旅に出たい気持ちに拍車がかかります。

 国内・海外旅行どちらにしても、私の旅の1番の楽しみは、ずばり『食』。きれいな風景より、歴史的建造物より『何を食べたか!』これがもっとも心に残ります。

 稀代の食いしん坊の私が、パリに行ったら必ず食べたいものベスト3をお送りします。

ボブン(Bo Bun)

 
 まず最初に思い浮かぶのがベトナムの麺料理ボブン。お米でできた細麺の上に、野菜、牛肉、ネム(ベトナムの揚げ春巻き)ピーナッツなどがトッピングされていて、お椀の底には甘酸っぱいソースが入っているので、よくかき混ぜて食べます。パリではおなじみの麺料理で、ボリュームもあり、気取らずに食べられる庶民の味です。
 
 ご存知のとおり、パリには植民地支配の歴史などを背景にインドシナ半島からの移民が多く、ベトナム料理店もたくさんあり、そのほとんどでボブンが食べられます。

 日本でもベトナム料理はかなり浸透してきましたが、フォーを出すお店は多くても、ボブンはなかなか食べられません。日本人の好きな味なので流行ると思うのですが…。この食べたくても食べられない(自分じゃ作れないし)切ない気持ちはもはや『渇望』と言えるレベル。
 
 上の写真は3区Rue VoltaにあるRestaurant SONG HENG。人気店で昼時は相席必至でお店の外には行列もできるお店です。メニューはフォーとボブンの2種類しかありません(ここはフォーも美味しいです)。パリに行かれる方はぜひボブン、召し上がってみてください。

 あ~食べたい。
 
 続きます。

2016年7月11日月曜日

『日記 ヨーロッパ浮わ気ドライブ』について

 今回は以前編集をお手伝いさせていただいた 『日記 ヨーロッパ浮わ気ドライブ 広告マンがクルマで走った1957年の欧州』 をご紹介します。




                 日記『ヨーロッパ浮わ気ドライブ 広告マンがクルマで走った1957年の欧州』(水馬義輝著)Kindle版




                                                      (書影はAmazonのサイトより)



 広島の広告代理店・みづま工房の創立者、水馬義輝氏が1957年7月から4カ月間、パリを拠点にヨーロッパ各国を車で旅した記録で、手書きの詳細な日々の記録と、水馬氏によって撮影された膨大な写真をもとに編集された書籍です。


  1957年と言えば、まだ日本人にとって渡欧が夢の世界の話だった時代。水馬氏はシトロエンとルノーのハンドルを自ら握り、9か国を走り抜け、3台のカメラを駆使して、広告マンの視点で当時のヨーロッパをフイルムに焼き付けていきます。


 訪れる国々でカルチャーショックを受けたり、自動車が故障したり、美術館で観た作品に心奪われたり。水馬氏の日記は読む人に氏の瑞々しい驚きや感動を伝えています。これも日毎に記録された走行距離や支出金額、地図や食事の内容などの克明な記録に基づくリアリティがあるからこそ。歴史的資料としても価値あるものだと思います。


 また、当時の写真はとても貴重なものばかり!パリの写真などはそのままヌーヴェル・ヴァーグの世界です。


 現在はKindle版のみ販売されていますのでご興味のある方はぜひお読みになってください。


 また、この電子書籍のスペシャルサイトhttp://www.eudriver.net/ もとても面白いのでぜひご覧ください! 


 さて、この本の編集で私がお手伝いさせていただいたのは、水馬氏の日々の記録用紙の内容をワープロソフトで書き起こす作業でした。4か月にわたる旅行ですので、当然ボリュームもあり、最初のころは先が見えず苦労しました。でも毎日、氏の記録をなぞっていると、まるで自分が氏に乗り移ったかのようになり、書き起こす風景が目に映り、車が故障すれば「またかよ、勘弁してくれよ!」と水馬氏も口走ったであろう言葉を漏らしてしまうほどのめり込んでいきました。一字一句、誤字まで正確に書き起こすように頼まれていたので、原稿は記録用紙の完全な復元物になりました。原稿を納品した時点では、どんな感じの本になるのか全く想像がつきませんでしたが、編集担当の恩田さんの手にかかり、氏の記録に忠実でありながら、とても読みやすく、ページを繰る手が止まらない素晴らしい1冊となって手元に届いたのです!

 編集担当の恩田さんとは、私が大学生の時からのお付き合いがあります。当時東京日仏学院の文芸翻訳のクラスを履修していたのですが、そのクラスでご一緒していた方に、フランス語の通訳を探していた恩田さんをご紹介いただき、食のスタイル雑誌「ARIgATT」(現在廃刊)のフランス関連記事のための翻訳や通訳をさせていただいていました。ミシュランガイドの編集長や超有名シャンパーニュ会社の社長など、大学生が会うことなどあり得ない方たちのインタビューを通訳させていただいたことを昨日のことのように思い出します。ライターをされていた恩田さんは、まだ学生の私をひとりのプロとして信用してくださり、チームを組んでくださいました。その後も食事に誘っていただいたり、フリーになるときにはいろいろとアドバイスをくださったり、とても頼りになる素敵な先輩なのです!(これからもよろしくお願いします!)


 日記と言えば、先日自分の学生時代について記事を書いたとき、やはり20年近く前の記憶はかなり曖昧になっていて、きちんとした記録をつけておくべきだったと後悔しました。今はSNSがある意味日記のような役目をしていますが、それは友人たちに公開する前提で書かれたものであり、生活の中で抱いたネガティブな感情や、他人との諍い、恥ずかしい失敗などについては語られず、後からさかのぼって読んでみると、おいしいものを食べて、旅行に行き、仕事や子育ても順調なハッピーな私しか見えてきません。しかし実際の生活と言えば、言うことを聞かない子供たちに手を焼き、昼食はカップ麺を啜ったり。きらきらと楽しかった思い出は脳によって勝手により一層美化され、記憶に定着し、ネガティブな思い出は次第に色褪せ、なかったことになっていく。そんな気がします。


 ハレの日もケの日も両方あっていい。

 日記をつけ始めようと思います。

2016年7月7日木曜日

Kumisoloについて

 初めて会ったときに、何かを感じる人っていませんか?雰囲気があるというか独特の波長が出ているというか、古い表現だけど、オーラがあるというか。

 私が大学2年のとき、友人と作ったサークルを訪ねてきたKumiちゃんを見て、とても強い印象を受けたのを覚えています。まだあどけない少女のようでありながらしっかり自分を持っていて、おっとりとした優しい話し方の中にも、しっかりとした意志をかんじられるような。

 当時からフランス文化にとても造詣が深く、音楽や映画にとても詳しくて、なんといっても私のバイブルだったオリーブのストリートスナップに載ったことがあるKumiちゃんに私は尊敬の気持ちを抱いていました。家も近所だったので遊びに来てくれたり、作ったガト・オ・ショコラを届けてくれたり、心地よいお付き合いをさせてもらっていました。私が留学から帰って、ホームパーティーを開いたとき、偶然来ていたフランス人アーティストの友人を、Kumiちゃんに紹介しました。彼らは連絡先を交換し合い、Kumiちゃんが渡仏した後に様々なプロジェクトでコラボし、活躍しています。初めてふたりの共作のMusic Videoを観たとき、感動して涙が止まりませんでした。Kumiちゃんは私にとって永遠の尊敬の対象であり、ミューズなのです。そして私とイザベル・ボワノを引き合わせてくれたのもKumiちゃん。2012年の夏、パリのイザベルのアパルトマンで約10年ぶりの再会を果たせたのはよき思い出です。

 フランスが好きな方はご存知かもしれませんが、Kumiちゃんはバンド活動(Konki Duet)を経て、現在はソロ、Kumisoloとしてパリを拠点に活動しています。

Kumisolo ホームページはこちら➡ http://kumisolo.com/

 彼女の音楽はポップでキャッチー、それでいてユーモアと辛辣さを併せ持っています。フランス語・日本語・英語を自由に操り、フランスと日本をボーダレスに行き来する世界観、とても魅力的なんです。

Cœur Frag



Ongaku



 また、音楽だけでなく、ファッションやアートなど様々な分野のアーティストたちとのコラボレーションも多く、彼女の才能へのリスペクトが感じられます。
 
 Shu UemuraのPV かっこいいです!!



 こちらはビオ食材の宅配会社Les Popotes のプロモーション用炊き込みご飯の作り方説明ビデオ。可愛いです!!



 パリではライブやイベントなど、精力的に活動しているKumisolo。パリになかなか行けない私は、日本での凱旋ライブを熱望しています。
 
 私もいつか彼女とお仕事ができるよう、努力していきたいと思います!

 

2016年7月6日水曜日

リヨン~アンジェ/修道院のブリジット

 性懲りもなく学生時代の記憶の旅を続ける新行内です。もう少しだけお付き合いくださいませ。

 パリ短期留学から帰った私は、学習塾のバイトを辞め大学と日仏学院の授業に集中するようになりました。3年生に進級するタイミングで、2つ下の妹が早稲田に入学したため、松原団地と高田馬場の中間点(?だいぶ高田馬場よりのような?)にある西日暮里のアパートに引っ越し、妹との共同生活が始まりました。私にとっては初めての東京暮らし。各種書類の住所欄に「東京都」と書けるのが嬉しかったのを覚えています。
 
 大学では、尊敬するフランス人教授のゼミにも入ることができ、毎日が充実していました。そして無事交換留学生試験をパスすることができ、4年生の夏から1年間の留学に旅立ちました。

 留学先のフランス西部の中核都市、アンジェに入る前に、大学から支給された留学準備金を使ってリヨンカトリック大学の夏期講座を1か月間受講しました。フランス第2の都市、リヨンに滞在してみたかったのです。大学は市の中心部にあったのですが、学生寮は郊外にあり、夜には1人ではで歩けない雰囲気のところでした。実際昼間に1人で歩いていて、トラックの窓から空き缶を投げつけられたこともありました(怖)。なので夜出歩くということはほとんどせず、その分寮の仲間同士でとても仲良くなり、寮のキッチンで料理をしてみんなで食べたり、音楽をかけて即席クラブを作って踊りまくったり、週末にみんなでスイスを旅行したりと楽しかった1か月は瞬く間に過ぎてしまいました。

 そしていよいよアンジェ入りします。私が通った西部カトリック大学 Université Catholique de l'Ouest CIDEF http://www.uco.fr/はフランスにはわずか4校しかない私立大学です(他はすべて公立)。治安のよい街であること、この地方のフランス語のアクセントが美しいという定評があることからか、日本をはじめ、アメリカ、カナダ、韓国、台湾、メキシコ、イタリアなど、さまざまな国からの留学生が在籍していました。授業はとても厳しく、課題や論文、資格試験の勉強など、寮に帰ってからもかなり勉強しないとついていけませんでした。
 
 住まいは大学から斡旋された女子寮に入りました。そこは修道院が経営する寮で、主にスペイン出身の高齢のシスターたちとアンジェにある何校かの大学に通う学生が50人くらい滞在していました。
 早朝から階下のチャペルでお祈りの時間があり、夜は夕食後すぐにシスターたちは寝室に戻っていきました。現代の生活の中で彼女たちは浮世離れした存在で、いつも静かに年頃の女学生たちを見守っていました。もちろん男子禁制。庭師の男性ぐらいしか門の中に入ることはできず、金曜の夜などは、門の前に男の子たちが、ガールフレンドが出てくるのを待って並んでいました。そんな清廉な雰囲気の寮内に1台だけあったテレビで、シスターたちが寝静まった後、お下劣で最高に面白い映画『Les Bronzés』http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=51781をみんなで観てゲラゲラ笑い、トイレに起きてきたシスターに気づき、慌ててチャンネルを変えたりしていました。
 朝食には、毎朝近所のパン屋さんが配達してくれる焼きたてのバゲットが籠にこんもりと盛られており、バターと2種類のジャム、コーヒーとミルクがセルフサービスで食べられました。フランス人の友人たちは、毎日タルティーヌじゃ飽きると言って、シリアルや何かを食べたりしていましたが、私は1年間、ほぼこのパンをタルティーヌにしてカフェオレと一緒に食べ続けました。パンはもちろんバターやジャムがおいしくて、飽きることなどなかったのです。寮での食事は夕飯のことより、この朝食のことの方が印象深いです。
 
 当時はフランスではやっと携帯電話が普及し始めた時代、誰かから電話がかかってくると「Noriko, demandée au téléphone! ノリコ、電話です!!」という寮内放送がかかり、寮に2台しかない電話に駆け込み受話器を取るのでした。自分に電話がかかってくるととても嬉しい。他の子が呼ばれてると「あっ、あいつまたかかってきてる!いいな~。」なんていう具合に、それまで集団生活に慣れていなかった私は、その楽しさにどっぷりとはまりました。今でもできることならば、どこかの寮に入って、少し不便な暮らしがしたいと思ってしまうほどです。
 
 そしてなぜか寮母さんにあいさつをすると、「Bonjour Brigitte! おはようブリジット!」と返されていました。ノリコとブリジット、どう考えても似ていないと思うのですが、日本人の慣れない名前を覚えるのが面倒だったのか、以前に私に似たブリジットという名のアジア系フランス人の学生がいたのか。理由なんてどうでもいい!私は小躍りしました!!「私がブリジットだって!!!」そうです、自分が憧れのフランス人ネームをつけられたのですから!(アホ)
 ちなみにこのブログのタイトルNorique(ノリック)は、アンジェ時代の友人がつけてくれたニックネームです。

 旅行にも多国籍グループで、いろいろ行きました。バルセロナやロンドン、ベルリンやブリュッセルなど。フランスの学校はこまめに1~2週間単位の休暇があり、電車代なども25歳以下には大幅なディスカウントがあったりして、お金をかけずともいろいろな都市を旅することが出来ました。宿泊はテントか車中泊、ユースホステルなどを使いました。今この年齢になると、さすがにテント泊はきついかもしれませんが、当時は若さゆえ多少の困難が旅を楽しくするスパイスになっていた気がします。
 また、ミレニアムをパリで過ごそうと、友人たちと、私が以前お世話になったパリのマダムの家に滞在しました。夕飯は日本食レストランで年越しそばを食べようと言っていたのに、アペロでピスタチオを食べすぎ、お腹を壊してしまいひとりアパルトマンで留守番をしたのを鮮明に覚えています。その後正露丸の力を借りてシャンゼリゼに出て年越しをしました。酔っぱらいの投げたビール瓶が当たりそうになったりしましたが、よき思い出です。(的がデカいからか、ものをよく投げつけられてますね)※後日友人より、私はお腹を壊していたのではなく、ガスが溜まっていて腹痛を起こしていたとの指摘がありましたので訂正します。

 留学も後半戦に入ると、大学の他でも、アンジェっ子の友人も出来、放課後や週末はその家族と過ごすことが増えました。何週間にも及ぶフランスの休暇も、その友人家族の別荘で過ごしました。ひとりっ子だった彼の両親からはとてもかわいがってもらい、いろいろなところに連れて行ってもらい、親戚の集まりにまで呼んでいただき、お母さん得意の料理をふるまってもらいました。彼らと過ごした時間が、フランス語や、フランス文化の習得にどれだけプラスになったことでしょう。感謝しても感謝しきれません。(翌年彼と両親は来日し、我が実家に滞在したこともありました。今は亡き祖父母に彼らを紹介できたことはとても良い思い出です)。

 とにかくこの1年間の密度の濃かったこと!思い出をすべて書こうと思ったら何ページあっても足りません!日本人の友人、世界中の同年代の若者と勉学に励み、遊び、旅をし、語り合えたこの1年は、いまだに人生の中の最も充実した日々だったと言えます。1年の短い期間だったからこその無責任な感想かもしれません、それでも私にとっては、いつまでもみずみずしく保っておき、辛く苦しいときには取り出して眺めたくなる記憶の集合体なのです。

 こんな頭の中がお花畑状態で帰国した私を待っていたのは、超超氷河期といわれた2000年の就職活動だったのでした。

 続きはいつか書きたいと思います。


2016年7月5日火曜日

プラスチックな仲間たち/パリへ!

 前回、前々回と、私の学生時代について書いた記事に、「早く続きが読みたい」と言ってくださる方たちがいたりして、調子に乗って本日も学生時代に思いを巡らせる新行内です。

 さて、サークルなし、恋人なし、バイトと学校の毎日を送っていた私ですが、大学生活も1年を過ぎた頃には「私はこのまま退屈な日々を送っていてよいのか?」と自問し始めます。これは憧れていた学生生活ではない、寂しすぎるぞ!という心の声が聞こえてきたのです。授業で会えばおしゃべりしたり、昼食を一緒に食べたりする友人はいましたが、もっと親密に、楽しく過ごせる仲間が欲しい、そう、仲間が欲しいんだ!ということになり、春休みに同じ高校出身の友人と2人で、サークルを作ろうと計画しました。でも、何のサークルを?私たちは、チラシをコピー機で印刷し、新入生に配りました。そのチラシには『Plastic Machines』と書き、≪映画や音楽が好きな人募集≫的な文句、そして連絡先のみを載せました。きっと誰も来ないさ、だって自分たちでも何のサークルかわからないのだし。と思っていましたが、なんと10人ほどがコンタクトを取ってきてくれたのです。同郷の他大学の男の子をはじめ、何人かの男子とお洒落で個性的な女子たちが、仲間になってくれたのです。これは予想外でした!とは言え、決まった活動は特になく、たまにご飯を食べに行ったり、学食でお昼を一緒に過ごしたり、誰かの家でビデオを観たり、サークルノートを回したりそんな感じでした。今思えば、部活やサークルに所属するよりも、ひとりでいるほうが好きなタイプの人が多かった気がします。
 
 その中の1人に、今フランスを中心に活躍するミュージシャンKumisoloちゃんがいたのです!!
http://kumisolo.fr/
彼女は60年代の古着を素敵に着こなして登校し、太くアイラインを入れてヌーヴェル・ヴァーグの女優のような雰囲気を醸し出していました。やはり当時から異彩を放ち、素敵だったのです!(Kumisoloについては別の回で詳しくご紹介します!)

 他のメンバーも、独特の雰囲気を持った、面白い人たちでした。今でもSNSで繋がっている人がいますが素敵に歳を重ねているようです。

 そんなこんなで完全に調子をこいた私は、1年間地味な生活を送っていたために貯まりまくった貯金をはたいて、2年生の夏休みに1か月間のパリ留学に出ました。大学で斡旋してくれる留学プログラムもあったのですが、変に背伸びをしていた私は、初めての海外渡航であるにも関わらず、自分ひとりで学校探しから航空券の手配までをし、出発の日を迎えました。トランクにものを詰め込みすぎて超過料金を取られそうになり、成田のチェックインカウンターで、見送りの両親とトランクを開けて重い荷物を取り出した記憶があります。本当はとても不安でしたが、これが自分で選択する人生の始まりなんだ!と妙に意気込んで行ったのを覚えています。

 パリの空港には語学学校のスタッフが迎えに来てくれていたのですが、早速助手席だと思って左ハンドルの運転席に乗り込もうとして、「き、君が運転するのか・・・?」と驚かれました。

 ホームステイ先は8区の高級アパルトマンの1室。有名な建築家の元妻で、官能小説を書いているマダムと、私と同世代の娘と息子の家庭でした。私の他にもドイツ人とレバノン人、オランダ人の留学生が滞在していました。みんなとフランス語で話そうと努力しますが、大学1年間の学習で獲得した語彙は少なすぎ、他の留学生たちも初心者だったので、結局英語で会話していました。1か月の滞在で、英語がかなり上達しました。肝心のフランス語は、授業がとても厳しく、苦労しましたが、ラテン系の学生たちが日に日にペラペラになっていくのを横目に、私の上達は亀の歩みでした。でも、何かを掴み始めた気がしました。
通っていた語学学校 ELFE   http://www.souffle.asso.fr/fr/elfe.html

 午後に授業が終わって、パリの街を歩くのがとても楽しみで、毎日メトロに乗っていろいろなところに行きました。映画の中で見ていた場所に自分が立っている、そのことだけで涙が出そうになっていました。実際に泣いていた気もします。傍から見たらエキセントリックなアジア系中学生。パリの中学生によく声をかけられました。

 パリでは見るもの食べるもの、すべてが新鮮で刺激的でした。そのどれをも目に焼き付け、パリの美しさ、汚さ、厳しさ、寛容さを体感する毎日でした。

 帰国が近づいたある日、アパルトマンでマダムと2人きりになったとき、「強く、賢い女性になるのよ、自分の道を自分で拓ける人間になりなさい」と目に涙を浮かべて言われたのを覚えています。私は彼女の目にどう映っていたのでしょう。 とても頼りなげでまっさらな、自分のない少女に見えていてそう諭さざるを得なかったのかもしれません。

 あっと言う間に1か月は過ぎ、帰国した二十歳の私は、今までの自分ではなくなったような気がしていました。そして習得をあきらめていたフランス語を何とか自分のものにしようと、勉強するようになりました。考えてみれば受験勉強すらきちんとやらなかった私が、初めて時間を忘れて机に向かうようになりました。パリで英語で生活した自分への嫌悪感と、1か月間のフランス語特訓で芽生えた「もしかしたら話せるようになるのかも」という僅かな希望がそうさせたのだと思います。
 次はもっと長く留学したい。交換留学生の試験に受かりたい。大学だけでなく飯田橋の東京日仏学院(現アンスティチュ・フランセ東京)http://www.institutfrancais.jp/tokyo/に通いだしたのもこの頃です。

続きます。


2016年7月3日日曜日

松原団地の青春

 最近ニュースで東武伊勢崎線松原団地駅の名前が「獨協大学前駅」に変わると聞き、複雑な思いを抱いた新行内です。賛否両論あるみたいですね。

 そんな獨協大学に1996年に入学しました。もう20年も前のことなのですね。
 当時私の在籍したフランス語学科は、フランス語を高校までに既に習ってきた学生で構成される「既習者組」1クラスと、大学からフランス語を始める「未習者組」3クラスがありました。驚くほどに女子ばかりで、男子学生はクラスに3~4人くらいだったと思います。共学の中で育った私はまずこの女子ばかりという環境に少し恐れを抱きました。しかも周りの女子はみんな大人に見え、それぞれ入学後すぐにテニスサークルやオールラウンドサークル(当時流行っていた)などに入り、キャンパスライフを謳歌していました。
 私と言えば、入学早々決まった学習塾の英語講師のアルバイト開始2日めにして、帰りのバス停で痴漢に遭遇し、すぐに交番に駆け込んで無事だったのですが、その事件がトラウマになり、あんなに大嫌いだった実家に帰りたくなるというまさかのホームシックに陥りました。とにかく1人で暮らすことが怖くなってしまいました。そんな私を救ってくれたのは、当時住んでいた、大学のすぐ裏の獨協大生専用のアパートで隣室だった同級生でした。彼女は三重県出身のドイツ語学科生で、同級生でしたが浪人を経験しており、1年ひとり暮らしが早かった分、私のことをいろいろと心配して声をかけてくれました。彼女の部屋で食べた彼女の帰省後に必ず作ってくれる伊勢うどんの味がまだ忘れられません。
 こうして、ホームシックに罹り、サークルの新歓コンパのノリにどうしてもついていけない私は、なんのサークルにも所属しないという、一匹狼の道を選んだのです。もう、授業とアルバイトのみの生活。飲み会もない、サークル合宿もない、ただただ学校とアパート、学習塾の往復。それを淡々とこなしていました。肝心のフランス語も、やたら動詞の活用や発音記号ばかりの教科書に早々にギブアップ感を覚え、「あ~なんで英語学科にしなかったんだろう・・・」と後悔の日々。4年後にフランス語が話せるようになっているイメージもなく、1年生の頃の成績は中の下あたり。唯一学校で楽しかったことはオーディオルームで、フランス映画のビデオを観ること。フランスの新旧の映画を思う存分鑑賞できました。そして、松原団地は東武伊勢崎線。ぐいぐい南下すると日比谷線に直通しており、休日は六本木の「シネヴィヴァン」(閉館)や日比谷の「シャンテシネ」(現TOHOシネマズ・シャンテ)に行き、フランス映画の新作を見に行きました。そういうことに付き合ってくれる友人もいなかったのでひとりきりで。日比谷に行った時にはプランタン銀座の地下にある「ビゴの店」でバゲットを買い、隣にあったチーズ売り場で今までプロセスチーズかクリームチーズしか食べたことのなかった私は、フランスのいろいろなチーズを少しずつ買い、家で簡単なサラダを作って、おフランスな食卓を演出し、ひとりで食べては悦に入っていました(隣人は恥ずかしくて呼べなかった)。アンジェリーナのモンブランを初めて食べたときの感動もまだ覚えています。イエナ書店(閉店)で自分でも読めそうな子供むけのフランス語書籍を買ったりするのも喜びでした。フランスの本は、匂いが日本の本とは違うのです。当時はくんくんそれを嗅いでは遠いフランスに思いを馳せていました。
 松原団地から都心は遠かったけれど、千葉にいた頃から比べればとても近い。何しろ乗り換えなしで六本木です。当時は夢のようでした。ある教授が「獨協大学は教授陣やカリキュラムどれをとっても素晴らしい大学だけど唯一立地条件が悪すぎる。もし都市部にあったら、君たちなんか入学できないよ」とおっしゃっていました。でも私にとってはそこは夢の「都会」だったのでした。 続きます。

どうしてフランスだったのか?

 人にはそれぞれ、理由はないけれどとにかく『これが好き』『やめられない』『なぜか気になる』といったジャンルがあると思うのです。それがフランスだった人、新行内です。 

 「フランス語の翻訳をしている」とか「高校生の頃の理想の男性はジャン・ピエール・レオーだった」などと話すことがあると、みんな「えっ?似合わないね」というような表情を浮かべます。正確に言うとそういった表情を出さないように努力している表情をです。確かに、私はいわゆるおフランス好きには全く見えません。世間で言われる所謂「おフランスかぶれ」のイメージとして、お洒落であったりインテリであったり、流行に敏感だったりというのがあると思うのですが、そのどれもが私には当てはまりません。そんな私が、なぜフランスをジャンルとして(笑)選んだのか。考えてみました。
 私とフランスとの出会いは、高校時代のことでした。当時、田舎の女子高生だった私は帰宅部。放課後は再放送の「大岡越前」を祖父と観るために、1時間に1本しかない電車に乗るために命を懸ける毎日を送っていました。彼氏もいない、打ち込むスポーツもない、ましてや勉強も好きじゃないという暗黒時代、唯一の楽しみは毎月3日と18日に発売のオリーブを読むことでした。当時のオリーブはファッションだけでなく、ライフスタイルや映画や音楽などのカルチャーを東京との時差なく運んでくれる雑誌でした。その頃の私にとってはまさにバイブル的な存在です。聴くもの観るもの読むもの、すべてにおいて影響を受けていたと思います。
 そんな中でも一番心をつかまれたのが当時「渋谷系」と呼ばれたミュージシャンたち。ピチカート・ファイブ、フリッパーズギターやカヒミ・カリィ、など当時のポップカルチャーを牽引していた方たちが影響を受けていたもの、そして私たち世代に紹介していたもの、それがフランスでした。こどもだった私にどこまで理解できていたかはわかりませんが、トリュフォーやゴダールの映画を観、ピエール・バルーやセルジュ・ゲンズブール、フランソワーズ・アルディの曲を聴く。サガンやカミュの本を読む。テキストを買ってきてフランス語を独習し始めたのもこの頃です。
 フランス崇拝主義は若さのアクセルもあって、どんどん加速していきました。そして高校3年夏、私はフランス語学科のある大学に進学することを決めたのでした。もう、将来何になりたいとか、そういうレベルでの話ではありません(小学生の頃は英語の通訳か翻訳家になりたいと思っていましたが)。4年間、フランスにどっぷりかぶれるためだけの進路選択でした。幸い、子供たちの進路に無関心な両親から反対されることもなく、私はフランス語学科の学生になったのでした。そしてその学生時代にはさまざまな人たちとの出会いがありました。 続きます。